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人生の曲がり角における働くこと・生きること
We learn, 2022.9.(PDF)
鑪 幹八郎先生を偲ぶ ―大樹と夢― (広島大学名誉教授 岡本祐子)
はじめに
鑪幹八郎先生が亡くなられて,8か月余が過ぎた。ご命日は,2021年5月7日である。奥様から拙宅に先生のご逝去の報をいただいたのが,5月9日であった。私は電話口で絶句し,気を取り直して,その夜から翌日夕方までかかって,方々に連絡した。およそ1年前からご体調がすぐれないことは伺っていた。しかし,ご病気でも先生は長く生きていてくださるであろうという,希望と願いのようなものが心の底にあった。
最後にお目にかかったのは,2月18日だった。先生のご自宅近くへ研修会の講師として出かける用があったので,お見舞いに伺ってもよいかとお電話を差し上げると,その日は仕事場へ出かけるので,オフィスに近いホテルグランヴィア広島のロビーで会おうとおっしゃった。ご自宅で静養しておられるとばかり考えていたが,今も広島市内のオフィスで仕事をしておられると知り,先生の底力を心から嬉しく感じたものである。私は講演を終えると,急く気持ちを押さえて,ホテルに向かった。
先生は,片手をあげて迎えてくださった。これまでは,お目にかかるといつも,あの温かな包み込むような表情で,私がその時やっている仕事のことを興味深く尋ねて聴いてくださったものだった。その日は,小1時間ばかり話しただろうか。先生は,ご自分のご病気の話ばかりされた。深刻なご病状を,先生はわかっておられた。先生は,「そろそろ帰ろうか」と言われ,私たちは別方向の電車が到着するホームへの階段のところで別れた。先生の後ろ姿と足取りは,ふわふわしていた。「ああ,先生はもう亡くなられる」と私は感じ,その後長い間,落ち込んだ。
1. 鑪幹八郎先生の功績 ―研究と臨床―
1-1. わが国の臨床心理学を開拓する
鑪幹八郎先生のお名前は,臨床心理学を学んだ経験のある人々にとっては,知らない人はないであろう。そして,直接薫陶を受けた門下生ばかりでなく,学会や事例検討会,研修会などで,直接言葉を交わした人々の多くは,先生のあの独特の髭――晩年はずいぶん白くなられたが――と深みのある声,引き込まれるような笑顔,そして何よりも人間の心の深みに対するシャープで温かな講義やコメントは,心に刻み込まれているであろう。
鑪先生は,わが国の臨床心理学の黎明期から,指導的立場で活躍してこられた。精神分析的心理療法の理論と実践,夢分析,アイデンティティ研究,心理臨床家の育成・教育・倫理など,その奥行きと広がりを持った視点で,わが国の臨床心理学の世界を牽引してこられた。また,日本心理臨床学会にもその設立当初から関わり,理事,常任理事,理事長として,貢献されてきた。さらに,2015年(平成27年)に成立した国家資格「公認心理師」の誕生にも,数十年にわたって並々ならぬ情熱を注いで来られた。
1-2. 「境界」を超えて ―鑪先生の海外体験と精神分析学のわが国への導入―
鑪先生のご専門は,対人関係学派 H. S. Sullivanの流れを汲む精神分析学が土台となっている。対人関係学派の精神分析学をわが国に初めて紹介し,その理論と臨床実践を発展させたのも,鑪先生の功績である。先生は,1964~67年までの3年半,アメリカ合衆国ニューヨークのW. A. White研究所で精神分析の訓練を受けられた。当時のご苦労については,『境界を生きた心理臨床家の足跡』(岡本祐子(編) 2016, ナカニシヤ出版)に詳しく語られている。私の世代の門下生の中には,直接,その苦労と打ち込みの経験の話を伺った方も多いであろう。その後,White研究所には,一丸藤太郎さん,名島潤慈さん,山本雅美さん,辻河昌登さん,鈴木健一さんなど,広大心理学教室の同窓生もたくさん留学した。
1-3. アイデンティティ研究
鑪先生のもう一つの関心は,アイデンティティ論の創始者 E. H. Eriksonの仕事であった。先生は,Eriksonの理論や臨床に限らず,Eriksonの人生そのものに深い関心をお持ちであった。Eriksonの人生とご自分の育ちの経験が重なるところもあると伺ったこともある。鑪先生は,1979~1981年の2年間,Eriksonが長く臨床と研究に打ちこんだアメリカ合衆国マサチューセッツ州ストックブリッジにあるAusten Riggs Centerへ,在外研究員として滞在された。鑪先生に大きな刺激をいただいて,私は,Eriksonのアイデンティティ論,ライフサイクル論に魅了され,Eriksonの人生にも深く関心を抱き,それが,将来,臨床心理学の専門家として仕事をしたいという動機付けになった。1976-1977年の文部科学省の学生国際派遣制度によるMichigan大学留学,2012年のAusten Riggs CenterへのErikson Scholarとしての招聘も,鑪先生という身近におられた専門家モデルに魅了されてのことである。因みに,Michigan大学カウンセリングセンターには,鑪先生の古いご友人であるEdward S. Bordin教授が所長としておられ,Austen Riggs Centerには,鑪先生の在外研究員としてのRiggs滞在時代から親しくしておられた多くの精神分析家がおられた。私は,Austen Riggs Centerには研究者として初めての滞在でありながら,これまで経験したことのないat homeさを味わった。まさに,Eriksonの言う「基本的信頼感」がRiggsの隅々にまで浸透して息づいているような感覚であった。私の海外での研究経験は,鑪先生の手のひらに守られ,先生の海外の臨床家との関係性に刺激されて達成されたようなものである。
今日まで,先生とはいろいろな仕事をご一緒させていただいた。例えば,『アイデンティティ研究の展望』全6巻(合計7冊, 1984~2002, ナカニシヤ出版)の編集と出版は,鑪先生のアイデアに基づき,大学院の同期生である宮下一博さんと私が編集を行った。私たちの30代後半から40代を通して足掛け10余年の大切な仕事となった。3名とも多忙で集まれる日が見つからないため,仕事納め後の12月30日に,私の研究室で1日かけて原稿の最終確認作業をしたこともあった。
2. 心理臨床家を育てる
鑪先生は,広島大学教育学部心理学科(現 広島大学大学院人間社会科学研究科心理学プログラム)に,1971年4月に助教授として着任され,1984年4月に教授に昇任,1998年3月に定年退職を迎えられた。広島の地に初めて心理臨床の種をまき,大樹に育ててこられたのも鑪幹八郎先生の大きな功績である。鑪先生の着任後,広島大学に初めて地域に開かれた心理教育相談室(現 心理臨床教育研究センター)が開設された。私は,学部3年生の時からその相談室に来談されるクライエントさんの心理面接やプレイセラピーを,鑪先生のご指導のもとに携わった。まさに心理臨床を直に,一から学ぶ経験であった。
毎週金曜日の夜,鑪先生を中心に,臨床心理学専攻の院生と広島市内に職をもつ修了生の先輩を交えた事例検討会が開かれた。「金曜会」と呼ばれたこの会は,1事例を3時間かけて,徹底して討論するという心理臨床家の卵にとっては,願ってもない贅沢な勉強の機会であった。先輩たちも遠慮なく厳しいコメントを述べた。必ず,直近の1セッションの逐語録を提出し,その録音を聴き,ディスカッションするという経験は,初心者にとっては,自分がどのような心理面接をやっているか,すべて見えてしまう,恐怖の体験でもあった。しかしながら常に,事例の深い理解とともに,抱えられているという体験をもって事例検討会は終わった。広島市東千田町にキャンパスがあった時代は,夜10時,金曜会終了後,流川へ繰り出し,お酒を飲みながら緊張とその週の疲れを癒すという生活であった。先生ご自身の心理臨床の経験の話を伺える貴重なひと時でもあった。
私の学生時代は,鑪先生を訪ねて,しばしば海外から精神分析家が広島大学に来られた。その先生に,講演や事例検討会のコメンテーターをしていただき,夜はそのゲストを囲んでの夕食会も,たびたび開かれた。私たち院生は,広島に居ながらにして,精神分析学の世界 に触れ,心理臨床家としての資質を醸成して いった。鑪先生のご指導のもとに広島大学大学院で臨床心理学を学び,心理臨床家・臨床心理学の専門家として巣立った修了生は,優に70名を超え,それぞれの地で活躍している。
私が,広島大学大学院心理臨床教育研究センター長の時代には,鑪先生は,当センター客員教授として,心理臨床学コースの院生の集中講義にもご来学いただいた。広島大学の心理臨床のスピリッツを,孫弟子にも継承をと願ってのことであった。
3. 鑪先生との思い出
鑪幹八郎先生のお名前を初めて耳にしたのは,私がまだ高校生の頃であった。大学での専攻を「臨床心理学」とすることで,ようやく進路選択の「最初の模索」に納得し,次はどの大学を選ぶかに関心が移った。1970年代初め,わが国では,臨床心理学はまだ新しい学問だった。高校時代の恩師が,広島大学保健管理センターにおられる友人 藤土圭三先生を紹介してくださった。カウンセリングという言葉がまだ真新しい響きを持っていた頃の「勉強会」の仲間として,である。藤土先生を訪ねて,広島大学へ行った。藤土先生は,「広島大学心理学科は,これまで基礎心理学の長い伝統があるが,臨床心理学の研究室はなかった。が,今年,鑪幹八郎先生というニューヨークで精神分析学を学んだ先生が来られた。広島の臨床はこれから発展すると思いますよ」と言われた。これは,新鮮なインパクトを私に与えた。こうして,私は広島大学教育学部心理学科に進学し,生涯を通じての師となる鑪先生に出会うことになる。
3-1. 鑪先生の「謎」
それから今日まで,50年の歳月が流れた。単に大学・大学院時代の指導教員と学生という機能的な出会いではなく,それを超えたさまざまなことを,先生とともに携わってきた。
私たち学生は,それまで学んだ心理学の講義とは全く異なる心理学に出会い,心の底から揺さぶられ,精神分析学・力動臨床心理学の魅力に取り付かれて勉強した。しかしながら改めて考えてみると,それは,学問の魅力もあるが,鑪先生ご自身のお人柄の魅力も極めて大きいと思う。
そもそも鑪先生は,それまでの私の育ちの中で出会ったことのない「質」を備えた魅力的な異文化であった。心理臨床実践の経験を重ねることによって,自分自身の「生育歴・問題歴」の理解も深まってくる。同時に指導教官としての鑪先生は,心理臨床家になるための明確な同一化対象となっていった。それは,先生に対する「謎」の深まりでもあった。
「謎」とは何か。第一は,先生の仕事への向き合い方である。それは,先生のAuthenticity(本気であること)そのものであった。この集中力と持続力はどこから来たのか。今から思うとそれは,学生に「本気で仕事をする姿を見せる」という教育ではなかったか。先生は次のように述べている。「持続するエネルギーとは、はっきりと目覚めた意識的努力が土台となっている」(鑪幹八郎(2002) 経験の成熟の契機について, 『鑪幹八郎著作集』第1巻, ナカニシヤ出版, p.137), 「(それは)不断の努力による緊張した糸のような力である」(同上, p.144)。
第二は、先生の中の父性と母性である。これは、厳しさと優しさと言い換えてもよい。「相手を深く理解し抱える」「懸命に努力しながら待つ」・・・これらは,心理臨床家がクライエントに対して求められる姿勢であるが,先生の院生を育てるスタンスにも相通じるものであった。あの決して妥協しない厳しさと,包み込むような温かさは,どうやって形成されたものなのか。これは先生の土台であると直感しながらもその由来は謎であった。
第三は,学生時代の私から見ても感じられた,しかしながら安易に言葉に表わしきれないunfitness(不適合感)の感覚である。土台や組織にすんなりとなじまない感覚を,私は鑪先生から感じていた。このように,臨床心理学の世界に入り込む中で,先生の「謎」は深まっていった。しかしその答えは,先生の数多くの著書からは見つけ出せなかった。それらの研究や臨床実践の根っこのところ,さらには先生のアイデンティティ形成の土台となったであろう成長期の物語については,私はそれまでごくわずかに,しかも断片的にしか伺ったことはなかった。
3-2. 謎解きとしての『境界を生きた心理臨床家の足跡』
2016年に,鑪先生の生涯の生涯の物語を,山本力さんと私が鼎談の形で伺い,『境界を生きた心理臨床家の足跡』(岡本祐子(編) 語り手 鑪幹八郎,聴き手 山本力・岡本祐子)として,ナカニシヤ出版から刊行した。本書は,刊行の前年に行った32時間にわたるインタヴューを書き起こし,編集したものである。大胆不敵な試みであった。この鼎談は,鑪先生が京都文教大学学長を引退されて,広島にお帰りになった後に,念願かなって実現したものである。鑪先生は,「これで丸裸になりますね」と言いながらも,ご快諾くださり,熱心に語ってくださった。先生はすばらしいストーリー・テラーでもあったことを実感した。そして,私の青年期以来の「謎」も少しは解けた気がしたものである。この本は,鑪先生の人生の物語であると同時に,わが国の臨床心理学の発展の歴史がリアリティをもって語られている。また,鑪先生ご自身の臨床経験,スーパーヴィジョンや個人分析の経験も語られ,これから心理臨床家をめざす若い世代に向けて心理臨床のヴィジョンと学び方が具体的に示唆されている。ぜひ読んでいただきたい1冊である。
鑪先生が亡くなられた後,膨大なご蔵書の整理の手伝いに伺った際,奥様は「あの本は,息子たちも読んでいます。私自身も知らないことがたくさん書いてありました」とおっしゃった。この本を刊行して本当に良かったと改めて感じたものである。
〇
鑪先生との思い出は,尽きることはない。私自身も,2020年3月に広島大学の定年退職を迎えた。鑪先生と出会ったのは,先生が広島大学に着任されて3年目,亡くなられたのは,私の定年退職の翌年であった。私自身の専門家人生はまさに鑪先生が活躍された歳月に符合する。亡くなられる2か月前まで,言葉を交わし,信頼し学ぶという先生との関係を持ち続けることができたことは,私の人生にとってかけがえのない経験であった。多くの門下生の皆さんも,鑪先生との忘れ得ない思い出をお持ちのことであろう。
そして,これからも鑪先生は,私たちの心の中に生き続けてくださることであろう。その証拠に,鑪先生が亡くなられた後も,先生は時々,夢の中にまで登場する。それは,「去っていく先生」ではなく,今もなお共に語り一緒に仕事をしている「先生と私」の物語の一場面である。そのことを,私は心よりうれしく思う。心の中に沁みとおった「先生と私」の経験が,これからどのように変容していくか。鑪先生との心的対話は,これからも続くことであろう。
先生のご冥福を心よりお祈り申し上げつつ,筆をおきたいと思う。
(注) 本稿は,広島大学大学院心理学講座「覃思」第65号(2021年度)に寄稿したものである。
「岡本祐子 広島大学名誉教授に聞く」(インタビュー)
中年の危機はだれにでも訪れる。ここを乗り切ることでより納得できるアイデンティティが確立する(PDF)
「中年危機の心理学」(岡本祐子監修)
Newton, No.2108, Pp.100-107.(PDF)
「書によって受け継がれる心とアイデンティティ」(文: 岡本祐子)
墨, 271号, Pp. 38-40.(PDF)
ミッドライフ・クライシスについて語る
- 30代から知りたい「中年の危機」: 「大人の心の危機」の乗り越え方とは.
日経ウーマン・オンライン, 2014.6.9. 日経オンライン, 2014.9.25.
岡本祐子(語り)・吉田渓(筆) - 複雑な女性の「ミッドライフ・クライシス」: キャリア女性は「仕事だけ」に,主婦は「キャリアのなさ」に悩む. 日経ウーマン・オンライン, 2014.6.16.; 日経オンライン, 2014.10.2.
岡本祐子(語り)・吉田渓(筆) - 「自分らしさ」を見直して危機を脱出しよう: 「でもまあいい人生だった」と思えれば脱出できる. 日経ウーマン・オンライン, 2014.6.23.;日経オンライン,2014.10.9.
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- 危機を迎える前に30代でやるべきこと: 「健康な自我」と「柔軟性」がキーワード.
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